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ヴィンテージ(20世紀中期)「幼子の天命」
縦:約65mm
横:約48mm
作者:-(ヴィンテージ)
QR:カタログクオリティ
カメオの題材となるものは時代により移り変わりがみられ、キリスト教のカメオは20世紀に入って以降しばらく見かけないものとなりましたが、20世紀前半の世界的混乱が落ち着いた年代に再び多く見られました。
従いまして古いカメオを中心に取り扱っていればそれなりに手にする機会は多い題材なのですが、今回取り扱いますのはその中でも珍しい聖家族のカメオです。
キリスト教のカメオにおいて最もよく見られるのは聖母マリアで、それに付随して幼子のキリストやヨハネを描いたカメオもよく見られます。
19世紀においては”小椅子の聖母”をはじめとするラファエロ・サンティの絵画をモデルとしたもの、20世紀においてはフィリッポ・リッピの”聖母子と二天使”がよく知られますが、いずれも描かれるのはマリア、イエス、ヨハネの3名のみ。
ですが今回は非常に珍しく4名、イエスの養父とされるヨセフも描かれたカメオになります。
構図としては聖家族の絵画等でもよくみられる腰を下ろしたマリアに抱えられているイエスとその傍らに立つヨハネ、そしてその後ろから家族を見守るヨセフというもの。
十字架の杖を携えたヨハネがイエスを受け取ろうとしているように見えますが、よく見るとヨハネは薔薇の花束を抱えており、赤子のイエスに薔薇を手渡そうとしているようにも見えます。
キリスト教において薔薇は受難と救いの象徴とされるもので、そう考えるとこれは赤子のイエスが救世主としての使命をその身に帯びる瞬間を描いたものなのかもしれません。
マリアとヨセフには光輪が描かれているのに対してイエスとヨハネには描かれていないのも、今この瞬間にはまだその神性が確定していないことを示しているのでしょうか。
この光輪の有無に関しては作者の技量的な問題でなかったのは作品全体を見ればわかることで、当時貝の供給が安定せずサルドニクスはほとんど流通無し、コルネリアンも安定している時代ほど質を望めなかったので、本作の素材も非常に淡黄色層が薄いのですが、その仕上がりは素材の不備を全く感じさせません。
全体的な構図やデッサンなどから絵画的な修練も積んでいることがわかりますし、なにか作者の深い意図を思わせる作品となっております。
貝は濃い橙色と淡黄色のコントラストが美しいコルネリアン。
貝が貴重だった年代の作でありながら1番材を大きくとった大判で、このようないい母材をまわしてもらえる(イタリアでは貝は組合が仕入れて1年以上の乾燥、カットを行い、工房や作者へまわす)ということからも実績がないような作者ではなかったことが伺えます。
ただし淡黄色層の厚みもそうですがヘアラインの無い材などさすがに贅沢が望める時代背景でなく、本作も1番材に特有の12時位置から左下にかけてはいるヘアラインに類する形で画面上半分に広く入っております。
特に裏面1時半から3時位置の縁に入ったものはヒビといえるレベルであり、フレームを着けようとしたらここが割れる可能性がありますが、現状はぐらつきなどもなく適切に取り扱っている限りは破損の心配はなさそうです。
横:約48mm
作者:-(ヴィンテージ)
QR:カタログクオリティ
カメオの題材となるものは時代により移り変わりがみられ、キリスト教のカメオは20世紀に入って以降しばらく見かけないものとなりましたが、20世紀前半の世界的混乱が落ち着いた年代に再び多く見られました。
従いまして古いカメオを中心に取り扱っていればそれなりに手にする機会は多い題材なのですが、今回取り扱いますのはその中でも珍しい聖家族のカメオです。
キリスト教のカメオにおいて最もよく見られるのは聖母マリアで、それに付随して幼子のキリストやヨハネを描いたカメオもよく見られます。
19世紀においては”小椅子の聖母”をはじめとするラファエロ・サンティの絵画をモデルとしたもの、20世紀においてはフィリッポ・リッピの”聖母子と二天使”がよく知られますが、いずれも描かれるのはマリア、イエス、ヨハネの3名のみ。
ですが今回は非常に珍しく4名、イエスの養父とされるヨセフも描かれたカメオになります。
構図としては聖家族の絵画等でもよくみられる腰を下ろしたマリアに抱えられているイエスとその傍らに立つヨハネ、そしてその後ろから家族を見守るヨセフというもの。
十字架の杖を携えたヨハネがイエスを受け取ろうとしているように見えますが、よく見るとヨハネは薔薇の花束を抱えており、赤子のイエスに薔薇を手渡そうとしているようにも見えます。
キリスト教において薔薇は受難と救いの象徴とされるもので、そう考えるとこれは赤子のイエスが救世主としての使命をその身に帯びる瞬間を描いたものなのかもしれません。
マリアとヨセフには光輪が描かれているのに対してイエスとヨハネには描かれていないのも、今この瞬間にはまだその神性が確定していないことを示しているのでしょうか。
この光輪の有無に関しては作者の技量的な問題でなかったのは作品全体を見ればわかることで、当時貝の供給が安定せずサルドニクスはほとんど流通無し、コルネリアンも安定している時代ほど質を望めなかったので、本作の素材も非常に淡黄色層が薄いのですが、その仕上がりは素材の不備を全く感じさせません。
全体的な構図やデッサンなどから絵画的な修練も積んでいることがわかりますし、なにか作者の深い意図を思わせる作品となっております。
貝は濃い橙色と淡黄色のコントラストが美しいコルネリアン。
貝が貴重だった年代の作でありながら1番材を大きくとった大判で、このようないい母材をまわしてもらえる(イタリアでは貝は組合が仕入れて1年以上の乾燥、カットを行い、工房や作者へまわす)ということからも実績がないような作者ではなかったことが伺えます。
ただし淡黄色層の厚みもそうですがヘアラインの無い材などさすがに贅沢が望める時代背景でなく、本作も1番材に特有の12時位置から左下にかけてはいるヘアラインに類する形で画面上半分に広く入っております。
特に裏面1時半から3時位置の縁に入ったものはヒビといえるレベルであり、フレームを着けようとしたらここが割れる可能性がありますが、現状はぐらつきなどもなく適切に取り扱っている限りは破損の心配はなさそうです。







